
予算の都合で、仮設住宅のコミュニティ支援の活動は、
10月半ばで終了した。
…の、はずだった。
なのに、今、東北にいる。
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仮設住宅の方々、
受け入れ自治体の方々、
地元集落の方々、
支援団体の方々、
いろんな人たちが、とても有機的な形で、
ゆるやかに心が通っていて、
これからの長い道のりとなる復興の未来を信じている。
これを、多分、「絆」と言うんだろう。
文字にすると照れくさいから、あんまり「絆」なんて言葉は使わない。
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でも、そういう輪の中に、僕も入ってしまったようだ。
多くの方々に囲まれている。
幸か不幸か、僕がしてきた行動よりも、
周りから受けた優しさの方が、断然多い。
その暖かさに、ふと涙が出そうになることがある。
そういう方々には、誰よりも幸せになって欲しいと願いながら、
今日も東北にいる。
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活動中に、手を4針縫う怪我をした。
ずっとそばに居て止血してくれた人、
車で救急病院まで運んでくれた人、
僕のいない間に代役をしてくれた人、
心配して駆けつけてくれた人、
無理しないように叱りつけてくれた人、
気遣って言葉をかけてくれた人…
人に迷惑をかけるから、怪我なんてするもんじゃないと、思いつつ、
優しさに溢れている「絆」を実感する。
また、涙が出そうになる。
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この地での出来事を、「怪我の傷跡」という形で、体に刻み込んでしまった。
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2011.10.31
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東京を出た時は、衣替えの前。
まだ半袖で十分な気候だったのが、
10日間も被災地に滞在しているうちに10月になり、
朝晩の気温は1桁になり、半袖でいると「元気な小学生」みたいになる。
岩手山では雪が降り、クルマのフロントガラスは冷たい露が覆う。
東北は一気に寒くなるので、「秋が無い」とも言うそう。
そうなので、次はちゃんと、長袖と、厚手の布団を持っていく。
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仮設住宅の支援活動が始まって3ヶ月。
3ヶ所の団地を回りながら、多くの被災された方々と話をし、
僕の名前も覚えてくださる方々も多くなってきて、
本当に、東京での用事を済ませてこの地に戻ってくると、
「ただいま!」という気分になる。
物資の支援、心のケア、という支援から、
文化的で創造的で建設的な活動をしたいという被災者の方々の
活動を支える支援へと変わっていきそうだ。
「大工仕事ならできるから、棚作りを手伝いたい」
「手芸が好きだから、こんど、アートフェスタに出展したい」
「吉田拓郎の歌を歌いたい」
津波は、道具や楽器なども流していったが、
彼らの腕や技術までは、流すことは出来ない。
同じ趣味の方々が集まってサークルを作ったり、
自分の役割を自分で見つけてお隣同士で助け合ったり、
2年で自立して出て行かなければならない仮設の団地コミュニティでも、
しっかりとしたコミュニティが育ってきている。
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僕も、そのコミュニティの中にはまっているが(※)、
さらに、周辺の地元の方々もはまり、
「支援する」「支援される」という特別な関係ではなく、
ご近所で困ったことがあれば、お互いに助け合う、という、
ごく日常的な関係に、だんだんなってきている。
日本が忘れてきたと思っていた地域コミュニティは、日本人は忘れてはおらず、
震災は、それを呼び覚ました。
(※)気仙地域の方言で、「グループの輪の中に入ること」を「はまる」というそうです。
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今回は10日間の滞在でしたが、1日だけオフにして、
未走破国道を目指して、ドライブに出かけました。
拠点地に戻る途中、虹をみつけました。
太陽と雨が出会って、輝くのが虹。
嬉しいことも、辛いことも、勇気を出して受け入れたら輝くね、きっと。
2011.10.06
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